お知らせ
2009年 1 月 10日 14:48:23誠に勝手ながら、レンタルサーバーの契約が切れる2009年11月5日以降を持ちまして、本ブログを閉鎖したいと思っています。
なお、コメント等ございましたら、こちらのブログの方へお願いします。
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ほとんど更新していないブログですけど、今年もよろしくお願い致します。


「からかわれたくない」気持ちというのは、一体、どんな気持ちなのだろう?
まず、「からかわれる」とは、自分の弱みを他人から攻撃されるということだろう。
とすると、「からかわれたくない」という気持ちとは、「自分の弱みを他人から攻撃されたくない」という気持ちということになる。
「自分の弱みを他人から攻撃されたくない」ということは、至極、当然の感情のように思える。しかし、その気持ちがあんまり強いと何かと良くないよな~と私は感じてしまう。
どうして、そう感じるのかと考えてみると、そういうふうに自己防衛の強い、威張った感じの人はとっつきにくいなぁ~と感じるからなのではないだろうか?
自己防衛の強い、威張った感じの人に対して、好感を持つ人は、そう多くはないだろう。
なぜそうなのかと考えてみると、相手にそういう態度を取られると、自分は何もしていないのに、まるでその人に危害を加えているような錯覚を起こしてしまうからなのだと思う。言い換えると、その人の前に立つと、無意識のうちに罪悪感を抱いてしまうのである。
何もしていないのに罪悪感を感じさせてしまうようでは、好感をもたれるはずもない。
ということは、自己防衛的であることは、相手に嫌な思いをさせてしまう、ということになる。
であれば、相手に嫌な思いをさせないようにするためには、過剰に自分が傷つくことを怖れないことが大切だ、ということになる。
それで、人はよく言うのだろう。「傷つくことを怖れるな」と。
傷つくことを怖れてしまうと、結果的に相手に嫌な思いをさせてしまうのである。
かといって、からかわれても黙っているのはこれまたよろしくない。なぜなら、心の葛藤のはけ口にされてしまうからである。だから、その都度、しっかりと反論した方がいい。そうすると、人には情というものがあるから、徐々に心の葛藤のはけ口にされる頻度は減少する。なぜなら、人は繰り返すことにより内在化したものについては愛着を感じるようになるからである。言い換えると、黙ったままでいると、敵意を感じる人が存在するから、逆説的ではあるが、しっかりと反論の言葉を述べた方がいい。
結論: 「からかわれることを怖れるな。しかし、からかわれたら、しっかりと反論せよ。ただし、後のフォローを忘れずに。」

これまで、あれこれと考えてきましたが、心地よく生きていくためには、次の1点に気をつけていればいいような気がします。
それは、「脳をまんべんなく使い、育てていくこと」。一般的には「あるがままであること」という言い方になるのかもしれません。人は脳を使うとき、幸せを感じるのかもしれません。
ひきこもりは、「愛されたい」という欲求が満たされない環境にあるために、全ての欲求を押さえ込もうとして起こるものなのではないでしょうか。
人付き合いがうまくいかない、長続きしないのは、相手の脳に自分のイメージをうまく育てることができないために起こるものではないでしょうか。このことをちまたでは「情を育てる」と呼んでいるのかな?
やる気が起きないのは、脳のどこかが活性化されていないため。脳をまんべんなく使ってやれば、やる気は起きるのかもしれません。
固有のもの(例えば、算数とか)に対してやる気が起きないのは、それ専用の脳が育っていないから。そういうときは、「愛されたい」という本能や、他の得意なもの(=脳が育っているところ)を使って、うまく導いてやればいいのかもしれません。
将来の見通しが立たず、不安になるのは、将来のことについて具体的に調べ、考えていないから。将来のことについて考える脳を育てていけば、自然と将来に対するイメージは湧いてくるのかもしれません。
生まれながらにして持っている本能は、まめに満たすようにした方がいいのかもしれません。それが、まんべんなく脳を使うということなのだから。逆に言えば、必要に迫られない限り、本能をがまんすることはやめた方がいいということになります。
大人はやっぱり、異性との心の交流を持ったほうがいいのかもしれません。なぜなら、お互いを求める脳が本能として存在するのだから。
達成感というのは、育ててきた脳が自らの存在価値を確かめられたことによる快感なのかも。だとすると、脳を育てて褒める、っていうことを習慣づけるといいのかもしれません。
ある物事にやる気を起こすのに意味や価値を与えることは大切だと思いますが、それは最終的には、「人と繋がりたい」という本能と結びついて、やる気が生じているような気がします。高度経済成長のやる気の原動力の一つは、「戦争で死んでいった人たちに申し訳ない」ということでの、死者の人たちとの心的繋がりによるものではないのか、という気がしないでもありません。
一方で、損得勘定で物事を判断したり、他人のことばかり考えて、自らの欲求を二の次にしてしまったり、やりたいことよりも安心・安全を優先してしまったり、批判を怖れて、やりたいことよりも批判を防ぐことに懸命になってしまうということは、脳を育てることからは直接関係ないことなので、いわゆる幸せ感を育てることが難しくなるのではないかと思います。
そして、脳を育てることからの様々な障害に立ち向かい克服するときに必要となってくるものが、チャップリンがおっしゃっている「勇気」と「想像力」なのかもしれません。ちなみにチャップリンはついでに「あと、少しばかりのお金があればいい」ということもおっしゃっています。まずは生きて、存在していかなければ始まりませんもんね。逆に言えば、生きて、存在できているだけのお金があれば、本当はそれだけで人は幸せ感を得られる状態、幸せ感を得るための必要条件はそれだけで十分である、ということになるのではないかと思います。
いろんなブログを見ていると、元気が出てくるものがある一方、なぜか凹んでしまうものもあります。それはどういうブログなのかなと考えてみると、自分の願望や満たされないことが、既に満たされているような人のブログに出会ったときです。私の場合ですと、幸せな家庭を築き、堅実な生活を営んでいることが伝わってくるようなブログを見ると、正直、凹んでしまいます。
なぜ、このように凹んでしまうのかと考えてみると、「○○したいなぁ~、○○でありたいなぁ~」と考えている脳があるにもかかわらず、それが実現できていないことを認識している自分をそのとき発見してしまうからです。
脳というのは、一度育ってしまうと、満たされずにはいられない、という性質があるように思います。だから、しばらくの間、もしくは永遠に満たされないのではないかと思っている願望を目の当たりにすると凹んでしまうのだと思います。
しかし、そうであってもそれほど凹まない願望もあります。私の場合だと、「身長が180cmくらいあったらなぁ~」というのがありますが、これはまず、永遠に満たされることのない願望でしょう。永遠に満たされることのない願望についての脳は育たないから、そういう人を見ても他人事のように感じられ、おそらくそれで凹むことがほとんどないのでしょう。
ところが、もしかしたら実現するかもしれない願望というのはやっかいです。「○○したいなぁ~」という時間が長くなればなるほと脳が育っていき、そういう願望が満たされている人を見るたびに凹むのだろうということが容易に推測されます。
以上の考察が正しいとすると、もしかしたら実現するかもしれない願望については、凹み続けるしかないのかもしれません。すでに脳が存在してしまっているのだから。
結論としては、自分の欲求に従って、適当に努力をし続けることが、生きるということなのかもしれません。忍耐することや我慢すること、他者志向性というものは、幸せ感というものからは遠いところにある概念であって、適当なところでうまく折り合いをつけるしかないのかもしれません。頑張りすぎれば、本来の脳と周囲の環境とのギャップが大きくなり、幸せ感が減退し、逆にあまりに努力をしないと脳が育っていかずにこれもまた幸せ感が減退してしまうのかもしれません。
こういうことをあれこれと考えていくと、様々な社会に適応し、臨機応変であるよりも、自分にあった環境を見つけ、その中で自分の欲求を満たしていくことを考えていった方が良さそうな気がします。歳を取ればとるほどに脳は成熟してしまっているのだから。
鹿児島へ帰ろうかなぁ~。

洗脳は恐ろしい。
なぜか? 本人が洗脳されていることに気づかないからである。本人の意図するところから、程遠い思想なり、考え方なりが知らず知らずのうちに頭の中にインプットされてしまうからである。
まだ、若い頃ならいい。しかし、こういうことを知らないままに歳をとっていくことは恐ろしい。なぜか? 自分が自分でなくなるからである。自己が統一されない状態(現実に則したあいまいな認識が一つあるのではなく、硬直した認識が複数存在してしまっている状態)になってしまうからである。
人を洗脳することは簡単である。どうすればいいか? 閉じた環境下で、考えさせないように情報を与えていけばいいのである。
ゆえに、自分自身を洗脳することも可能である。どうするか? ある物事を考える間もなく、くりかえし聞くなり、見るなりした後に考えることなく、すぐに寝てしまえばいいのである。こういうことを繰り返せば、意思とは関係なく人は洗脳されるのである。
ここまでの考察が正しいとすると、洗脳されないようにするためには、まず、聞かないようにすればいい。聞いてしまった場合には、考える時間を持つようにして、それから寝るようにすればいい。(という認識が正しければ、寝る前にブログを書くということも、まんざら悪いことでもなさそうだ。健康には悪そうだが、少なくとも頭の浄化には良さそうだ。)
おそらく、多くの人が自ら洗脳されていることに気づいていない。これは、何も意図的に政府や企業が洗脳しようと悪巧みをしている、ということを言いたいのではない。そういう意図とは関係なく、洗脳的メカニズムが世の中に跋扈しているがそういう状態に多くの人は無自覚である、ということをここでは言いたいのである。
洗脳的メカニズムとは、論理・時間的すり替えや印象操作、しゃべるスピードなどである。世の中は驚くほど洗脳的メカニズムで満ちあふれている、ということに、世間の人々は驚くほど無自覚である。だから、無自覚でいると、間違いなく洗脳されてしまう。無自覚であれば、洗脳されることは逃れようがない。
ここまでの考察が正しいとすると、意図的に人を洗脳することは簡単である。まず、信用してもらえるように権威付けを行う。さらに親密になって情に訴えられるようにしておく。その上で、考える間もなく、繰り返し、洗脳したいことをしゃべりまくり、最後に、後でゆっくり考えないように、宿題、課題を与えておけば完璧である。とにかく、自ら考えさせないことがポイントである。
一方、こういう状況に自らがはまり込んでしまわないようにすることも簡単である。自ら考えればいいのである。そして、そこが閉じた環境であれば、普段から外の環境の人とコンタクトをとっていればいいのである。
結局のところ、自ら考え、そして、いろんな人(たとえば、違う業種の人等)とコミュニケーションをとることが、洗脳を緩めるための格好の手段なのである。
洗脳されているもの同士の閉じた世界(例えば、日本語だけの世界)で生きていくのならば、それはそれで楽しいのだろうし、私は別に構わないと思う。むしろ、脅迫的に疑い深くなり、多くの人とコミュニケーションすることに熱心になるあまり、身の回りの人に冷たく当たるのもいかがなものかと思う。ただ、人というのは、誰しも、大なり小なり、洗脳されている部分があるということは自覚していた方がいいのではないだろうか?

I took off my hat.
I put on my hat.
Tags: -Blog is an effective means of communication.
OALD第7版を参照(TelevisionをBlogに置換)