これまで、あれこれと考えてきましたが、心地よく生きていくためには、次の1点に気をつけていればいいような気がします。
それは、「脳をまんべんなく使い、育てていくこと」。一般的には「あるがままであること」という言い方になるのかもしれません。人は脳を使うとき、幸せを感じるのかもしれません。
ひきこもりは、「愛されたい」という欲求が満たされない環境にあるために、全ての欲求を押さえ込もうとして起こるものなのではないでしょうか。
人付き合いがうまくいかない、長続きしないのは、相手の脳に自分のイメージをうまく育てることができないために起こるものではないでしょうか。このことをちまたでは「情を育てる」と呼んでいるのかな?
やる気が起きないのは、脳のどこかが活性化されていないため。脳をまんべんなく使ってやれば、やる気は起きるのかもしれません。
固有のもの(例えば、算数とか)に対してやる気が起きないのは、それ専用の脳が育っていないから。そういうときは、「愛されたい」という本能や、他の得意なもの(=脳が育っているところ)を使って、うまく導いてやればいいのかもしれません。
将来の見通しが立たず、不安になるのは、将来のことについて具体的に調べ、考えていないから。将来のことについて考える脳を育てていけば、自然と将来に対するイメージは湧いてくるのかもしれません。
生まれながらにして持っている本能は、まめに満たすようにした方がいいのかもしれません。それが、まんべんなく脳を使うということなのだから。逆に言えば、必要に迫られない限り、本能をがまんすることはやめた方がいいということになります。
大人はやっぱり、異性との心の交流を持ったほうがいいのかもしれません。なぜなら、お互いを求める脳が本能として存在するのだから。
達成感というのは、育ててきた脳が自らの存在価値を確かめられたことによる快感なのかも。だとすると、脳を育てて褒める、っていうことを習慣づけるといいのかもしれません。
ある物事にやる気を起こすのに意味や価値を与えることは大切だと思いますが、それは最終的には、「人と繋がりたい」という本能と結びついて、やる気が生じているような気がします。高度経済成長のやる気の原動力の一つは、「戦争で死んでいった人たちに申し訳ない」ということでの、死者の人たちとの心的繋がりによるものではないのか、という気がしないでもありません。
一方で、損得勘定で物事を判断したり、他人のことばかり考えて、自らの欲求を二の次にしてしまったり、やりたいことよりも安心・安全を優先してしまったり、批判を怖れて、やりたいことよりも批判を防ぐことに懸命になってしまうということは、脳を育てることからは直接関係ないことなので、いわゆる幸せ感を育てることが難しくなるのではないかと思います。
そして、脳を育てることからの様々な障害に立ち向かい克服するときに必要となってくるものが、チャップリンがおっしゃっている「勇気」と「想像力」なのかもしれません。ちなみにチャップリンはついでに「あと、少しばかりのお金があればいい」ということもおっしゃっています。まずは生きて、存在していかなければ始まりませんもんね。逆に言えば、生きて、存在できているだけのお金があれば、本当はそれだけで人は幸せ感を得られる状態、幸せ感を得るための必要条件はそれだけで十分である、ということになるのではないかと思います。
いろんなブログを見ていると、元気が出てくるものがある一方、なぜか凹んでしまうものもあります。それはどういうブログなのかなと考えてみると、自分の願望や満たされないことが、既に満たされているような人のブログに出会ったときです。私の場合ですと、幸せな家庭を築き、堅実な生活を営んでいることが伝わってくるようなブログを見ると、正直、凹んでしまいます。
なぜ、このように凹んでしまうのかと考えてみると、「○○したいなぁ~、○○でありたいなぁ~」と考えている脳があるにもかかわらず、それが実現できていないことを認識している自分をそのとき発見してしまうからです。
脳というのは、一度育ってしまうと、満たされずにはいられない、という性質があるように思います。だから、しばらくの間、もしくは永遠に満たされないのではないかと思っている願望を目の当たりにすると凹んでしまうのだと思います。
しかし、そうであってもそれほど凹まない願望もあります。私の場合だと、「身長が180cmくらいあったらなぁ~」というのがありますが、これはまず、永遠に満たされることのない願望でしょう。永遠に満たされることのない願望についての脳は育たないから、そういう人を見ても他人事のように感じられ、おそらくそれで凹むことがほとんどないのでしょう。
ところが、もしかしたら実現するかもしれない願望というのはやっかいです。「○○したいなぁ~」という時間が長くなればなるほと脳が育っていき、そういう願望が満たされている人を見るたびに凹むのだろうということが容易に推測されます。
以上の考察が正しいとすると、もしかしたら実現するかもしれない願望については、凹み続けるしかないのかもしれません。すでに脳が存在してしまっているのだから。
結論としては、自分の欲求に従って、適当に努力をし続けることが、生きるということなのかもしれません。忍耐することや我慢すること、他者志向性というものは、幸せ感というものからは遠いところにある概念であって、適当なところでうまく折り合いをつけるしかないのかもしれません。頑張りすぎれば、本来の脳と周囲の環境とのギャップが大きくなり、幸せ感が減退し、逆にあまりに努力をしないと脳が育っていかずにこれもまた幸せ感が減退してしまうのかもしれません。
こういうことをあれこれと考えていくと、様々な社会に適応し、臨機応変であるよりも、自分にあった環境を見つけ、その中で自分の欲求を満たしていくことを考えていった方が良さそうな気がします。歳を取ればとるほどに脳は成熟してしまっているのだから。
鹿児島へ帰ろうかなぁ~。

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